感想をあれこれ書く前に、読んだ順番は小説版の「幻魔大戦」で、この「新幻魔大戦」の小説版が2番目に読んだ本だった(その次が漫画版「幻魔大戦」)。
この「新幻魔大戦」も、石ノ森章太郎の漫画版があるが、そちらは未読(内容はほぼ一緒とのことだが)。
小説版の「幻魔大戦」については、序盤の石ノ森章太郎との漫画版のリメイク辺りまではその存在感を保っていた幻魔たちだったが、あっという間に存在感を失い、小説版の終盤では女の子に憑りつくくらいでしかなくなってしまっている(社会的に救世主を無力化するという意義はあるが、正直疑わしい)。
まぁ、作者自身の目指すところが変わってしまったので、仕方ないんだろうけど、やっぱりタイトル詐欺じゃんって。
さて、冒頭の「お時」の記憶から一転、「エド一九九九」というタイトルにあるように、我々の世界とは別の、もう一つの歴史を歩んだ日本が舞台。
細かいことを抜きにして、このエドが、一瞬にして崩壊する。
<幻魔>の尖兵は奇怪な力をふるって、天変地異を自在に駆使した。
平井和正「新幻魔大戦」
「尖兵」ごときに世界は破壊されつくした…という展開で、「いや、幻魔もちゃんと仕事出来るんじゃん」って素直に思ったワケです。
超能力者の数が少なく、力も強くなかったために、敗北を喫した…と説明されているんだけど、こんな実力行使するんだっていう。ベガが負けた戦いも、こういうカンジだったのかな?
ストーリー的にはさっさと世界が崩壊して次に進まないといけない部分なので、こういうツッコミは野暮だとは思うんだけど、これ以降の幻魔は何故実力行使をしないんだろう?っていう素朴な疑問が生まれてしまった。
ベアトリス王女は、超能力者である香川千波の意識を江戸時代からタイムリープしてきたお蝶の肉体に移植して、新たな人格「お時」を誕生させる。
そのお時を江戸時代に送り、幻魔に対抗できる超能力者を生み出そうというのが、主なストーリー。
誰かの意識を他人に移植するとかいうのも、まぁ、狂気の沙汰。
しかも移植先であるお蝶の人となりというか人格が、ほとんど描かれないまま、お時として統合されてしまう。
「複合人格」と表現されているが、実際には表面的には<千波>で、<お蝶>は識閾下に押しやられている。
大義の為とはいえ、ちょっとやり過ぎな気もしないでもないが、この頃の女性観みたいなのの影響もあるのかと考えてみたり。
お時と千之介の出会いとか、真名児とか、色々あるけれど、超能力者一族を生み出すという本題になかなか接近していかず、やきもきする。
そして後の東丈である由井正雪も、とにかく優柔不断というか、ハッキリしなくてイライラする。
クリストファー・フェレイラ登場以降のエログロ描写については、いかにもあの時代の作品という風情だ。
物語の最初のクライマックスは、幻魔と由井正雪の合体だろう。
やや性急な展開だが、冒頭のお時誕生とタブるように、まるで第三の人格が現れるように幻魔が変質していく。
物語の終盤は、お時と幻魔となった由井正雪とのバトル。
由井正雪との合体で変質を余儀なくされた幻魔が、ベアトリス王女やお時と同じ目的を以て行動しだすのも興味深い。しかし、幻魔正雪がシルヴァーナに産ませる子孫がどこにつながるのか、Wikipediaにも記述がないところを見ると、以降は一切触れられないんだろうな。
あと覚えておかないといけないのは、ベアトリスの釵(かんざし)だな。
ベアトリス王女からお時に託された品。
これで千之助やお蝶が無事に生まれてこられたし、主要な女性キャラクターがその身を守ることが出来た。
あ、大事な月影のことを忘れてたわ。
犬神の一族。ウルフガイ・シリーズを思わせる…ってだけかと思ったら、ちゃんと大事なキャラクターだった。
さて、改めて、幻魔大戦シリーズ全体を見渡した時の、この「新」の位置。
まぁ、やっぱりこれが出発点なんだと。
ここから漫画版、小説版、「真」の分岐が生まれた…ということで。
東丈のいない(もしくは目覚めないままの)世界からスタートし、由井正雪が幻魔となった世界を経由して、さまざまな並行世界に分岐していった物語。
その出発点。
小説版や「真」でその後の展開が一部明かされたとはいえ、中途半端に終わってしまったのは残念だな。
他の作品に比べれば、エンタメ性の高い作品だと思うし。